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◉ 位 置 : 全南宝城郡文徳面 竜岩里 1026-1(竜岩三叉路)
◉ 概 要 :
旧韓末開化の先鋒として一生を独立運動に身を捧げた徐載弼博士!
徐載弼(1866~1951年)は全羅南道宝城郡の郡守であった徐光彦の次男として生まれた。7歳のとき、ソウルで判事をしていた親戚の金声根の家で勉強を始めることになったが彼はそこで、この家と親戚関係にあり、しばしば遊びにきていた金玉均と出会った。幼いが向学心に燃える徐載弼を見て、金玉均はあれこれと教えてあげるなどして、共に親しくなっていった。
金玉均は、わが国を早く文明国家とするための人材の育成のため、才能ある青年のうちから61人を選んで日本への留学を説き、それを実行させていった。
徐載弼も選ばれ、他の青年と共に東京の陸軍幼年学校に入学し、新式軍事教育を受けることになった。2年間の過程を終えて帰国したのは、甲申政変の年、1884年5月であった。
周知のように、同年12月、近代的な郵政局の落成祝賀宴に参加し、守旧派を殺した金玉均ら急進開化派のクーデターは成功するかに見えた。が、閔妃(ミンビ)の委嘱を受け清軍が出動。開化派の兵力や王を守る日本軍を制圧し、クーデターは3日天下に終わった。
徐載弼は金玉均らと共に日本に亡命したが、さらに日本を離れ、徐光範らと共にアメリカに向かった。しかし彼は、母国を忘れることはなかった。1896年、大学を辞職して帰国した彼は国の自主独立のためまず独立門を、そして「独立新聞」を創刊し、さらに「独立協会」を結成して活動を展開していったのである。1898年 守旧派の謀陥で再びアメリカに渡って韓国人としては初めての医学博士になり、国内で3․1運動が起こると在米韓人会を組織し、闘争資金を集めて国内へ送ったり シャンハイ(上海)の臨時政府の外交委員長として活躍したりした。
解放とともに祖国へ帰り過渡政府の特別議政官を担当したりしたが、韓国戦争が勃発すると異国の地で祖国の不運な命運を痛嘆しながら病のため1951年88歳で静かに息を引取った。
徐載弼博士が幼年期を送った生家村の入口に彼を記念する祠堂と記念公園が作られたが、これは郡民が彼の自主精神を慕って、彼が生まれた文徳面ガネ村に記念館を建てたものである。
◉ 交通便 (バス)
光州 ⇒ 宝城市外共用ターミナール ⇒ 徐載弼博士記念公園
1. 光州 ⇒ 宝城(宝城․福内行直行バス利用)
2. 宝城市外共用ターミナール ⇒ 徐載弼博士記念公園
(07:00 09:45 11:40 13:50 15:15 17:45 - 1日6回)
※ 郡内バス時間は変動があるので必ず予め確認が必要です。
◉ 交通便 (乗用車)
光州 ⇒ 和順沙坪 ⇒ 沙坪自然休養林 ⇒ 竹山橋(大円寺․白珉美術館) ⇒ 文徳橋 ⇒ 彫刻公園(検問所) ⇒ 徐載弼博士記念公園 (⇒ ギャラリ ⇒ 支石墓公園 ⇒ 洛安邑城)
◉ 主要案内電話番号
宝城郡文化観光課 061-850-5224
光州綜合バスターミナール 062-360-8114
宝城市外共用ターミナール 061-852-2777
宝城交通 061-852-3646
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